第80章 山の民・土の民、そして海の民(2010.12.18)
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生物の種が滅びることは、地球規模の環境変化の中で当たり前のこと。歴史においては無数に起きてきた現象ではある。また、弱肉強食の世界の必然性でもある。それでも、意外と弱そうな生き物がしっかりと種を維持しているケースもある。大きな変化は別として、環境適応能力のバランス感覚の有無が、一番重要な要素であるに違いない。サラリーマン社会の世界と似たところもある。ヒラメの如く、上と横だけを見ながら動いている者もいるし、我は行くの世界で歩む者たちもいる。どちらも、それなりに組織の中である程度のポジショニングは得ているに違いない。

話が逸れたが、経済活動がかつてないほど増大した現代では、その活動が生物環境に与える影響は無視できないほど大きくなってきた。かつての高度成長期に日本が環境に与えてきたインパクトを、今では中国を中心とした急成長国が同じ道を歩んでいる。仕方のないこととするか、過去の過ちを繰り返さないようにするかは、世界のコンセンサス次第だろうが、多分に後者に流れてしまう可能性が高い。成長前提の経済システムがある以上、仕方のないことだろう。人間が絶滅種に指定される日も、地球の歴史からすれば、そう遠くないかもしれない。

最近、環境問題に関連する大きなニュースが2点ほどあった。「諫早湾ギロチン門の開放」と「絶滅種クニマスの発見」。このニュースで思い出されるのが「持越峠」。京都の人なら常識的な話だ。鴨川の源流がある「雲ヶ畑」に伝わる話である。ここに持越峠がある。名前の由来は雲ヶ畑は鴨川の上流に位置するため、この源流で流したものは良いも、悪いも、すべて天ちゃんが住まわれる京都御所のある京の方向へと流れ込んでしまう。そのため、この集落でしびとが出た場合、この峠を亡骸を持ち越えて、分水嶺の向こうにある隣村の真弓地区で葬儀をしたという習慣がその由来。持ち越すの意味はここから来ていると云う。日本人ほど、昔から汚れや神聖な地といったところに重きを置く感性を持った民族も少ないだろう。

「ここの渓流の水を汚すと京都の水を汚すことになるのかな」
「多分、そうだけど、たいしたことじゃないよ」
「それじゃ、遠慮なく用を足してくるよ」
「この辺で跨ぐか・・・・・」
「あ〜すっきりした。そのままの形で、流れて行ったよ」
「えっ、大ならトイレがあったのに、でも構わないさぁ、砂防ダムがあるからね」

山の民は海の民を考えながら、そして海の民は山の民に感謝して、その恵みを分かち合う。土の民はその間で、両方の民に感謝をしながら生きる。もし、このような社会が維持できれば、何とかなるんだろう。昔の日本人のおとぎ話の世界かもしれないが、つい、100年前までは日本人はこのような生き方をしていたことは事実だろう。この知恵が発揮されれば、経済だけではない、環境の国というコンセプトで地球の中で確固たる地位を築くことができるに違いない。さて、何から始めようか。

京都山小屋の住人

(次回に続く)