第68章 農業ブームの中で・・・農業産業(むすびわざ)(2009.05.16)
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経済の厳しさが増す中で、若者や中高年の人たちにも農業が注目されている。そんなブームの中で有機農業についても、さまざまな取り組みが行われている。それは行き過ぎた化学肥料や化学農薬などの使用や極端な機械化による労働集約的な作業からの開放の反動とも言える。化学肥料の使用は、直接的な生産性の効果は大きいが、土質の悪化や土壌の生態系の破壊など、長期的にはその土地の地力の低下をもたらしてしまう。そのような反省などから提唱されたのが有機農業であると言われてきた。

有機農業を振り返ると、今から30年ほど前に有機農業について熱く語っていた青年を想いだす。当時の有機農業は、化学肥料全盛期の中で、異端児的な存在であった。戦時中のレッドパージのように村八分の存在だったような記憶がある。その青年と二人でトウビキを収穫した後の畑で、鎌で茎を刈っては軽自動車の荷台に山積みにして、サイロまで運んだ光景が今でも鮮明に記憶の中にある。今でもトウモロコシの茎を山済みにした車の荷台から見た夕焼けが映画のワンシーンのように鮮やかに目に浮かんでくる。木製の橋を渡り、舗装もされていない道をトコトコとサイロのある家路まで運んだことが、つい昨日のように想い出される。現在は、コンクリート製の橋と道は舗装されているが、今でも同じ場所にトウビキ畑がある。

当時の牛の餌は、現在のような主に輸入配合飼料に依存したものではなく、日々の農作業から出る米ヌカ、畑のあぜ道の雑草やとうもろこしの茎、出来損ないの林檎、日常の食生活で出る残飯など、ごく身近にある食べものを上手にリサイクルして与えていた。直接確かめられたものであり、安心感があった。その当時の手間を考えると、大変であったかもしれないが、それが農業なのかもしれない。その手間を効率化、合理化というマジックで省くところに落とし穴があるのだろう。でも、手間と効率性を天秤にかけ、それをどこまで許容できるか否かの話であり、人の寿命や健康への影響を考えると、敢えて、そこまでこだわり過ぎることもないのかもしれない。そんな思いがある中で、寡黙にも鋤(すき)や鍬(くわ)を持ち、山間の棚田や小さな畑で雑草や土を耕し続けている年配の人たちがいることも忘れてはならないだろう。農業の原点は、自然と対峙し、そこから学び得る人としての産業(むすびわざ)の成果であることに違いない。自らが食うものは、納得できるものを食べたいのが本音ではある。何から始めようか。是非、農業ブームが定着することを願ってやまない。

「この牛の餌、海外から輸入加工されたものだね」

「栄養満点でよう太って高級品の霜降り牛になるよ」

「この牛糞が畑の素になるんだね」

「十分に発酵されて、ホコホコしているよ」

「大丈夫なのは微生物のおかげだね」

「大丈夫って?」

「・・・・・・」

京都山小屋の住人

(次回に続く)