第31章 廃村は昔の面影もなく、懐かしさすら感じる(2005.5.14)  
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無着成恭(むちゃくせいきょう)。とても懐かしい人。「子供電話相談室」でマスコミにも登場していた先生。今から40年前、昭和23年に山形の山元中学校に赴任し、3年間担任したクラスの教え子43人の教育記録がベストセラーになった「やまびこ学校」。この山元村は、出羽の山並みが幾十にも連なる山奥の寒村で、東北でも特に貧しい村でした。親が働きづめに働いても生活は楽ではなく、子供もお蚕さんや畑仕事などの働き手として学校に行けない、そのため、自分の名前もろくに書けない。そんな状況を打開するべく、自分の置かれてる状況を作文で書かせる無着先生。自分の思いを文字にする事で、自ら置かれた境遇を理解し、一歩一歩ではあるが、目の前にある課題を解決しようとする意志や姿勢を育んでいく教育姿勢に対し当時、賛否両論があった。現在でも、その教育手法は教育界に従事する人たちのバイブルとなっている本だ。この本ですっかり有名になったこの村は当時、戸数約三百、人口二千人足らず。集落のど真ん中に立つ山元中は教職員六人、全校生徒五十人にも満たなかったとのこと。今は、その面影は微塵もなく、近代的なコンクリート校舎が建ち、かっての険しい山道はの脇には高速道路並みのバイパスが蔵王山の裾野を縦断している。この5月の連休も近くの黒沢温泉に行ったが、その風景は、春の光を浴びて、キラキラと輝くリゾート地にふさわしい風景だ。

確かに、戦前や戦後間もない日本には、このような貧しい村が多く点在していた。特に、雪深い山間の地域の生活はとても苛酷だったようだ。当時の田舎での主な収入源は、炭焼きやお米、お蚕さんなどで細々と営んできた。特に、山間の村では、太陽の恵みを受ける時間も短く、さらに耕す田んぼも大きくないため、お米の収穫量はかなり厳しい状況にあった。このような生活苦の中では、女子は身請けされることも頻繁に行われていたと聞く。山小屋がある場所も、かつてはこの山元村に近い生活レベルであったことは容易に想像できる。事実、昭和初期に冬の厳しさから餓死者が出て、全員で村から逃げ出して廃村となった村がある。今では白壁づくりの土塀が崩れた残骸ぐらいしかないが、この場所に立つとそれが、理解できる。

現在の日本では考えられないが、つい近い時代にこのような生活があったことは感慨深い。現代でも、同様に生活苦が存在することは確かだが、下向きにその状況を受入れる生活はなかなかできないところに、今の社会の病があるかもしれない。さらに、物質的な貧しさよりは、精神的な貧しさが現代社会では大きな問題となっているが、その解の一つが田舎暮らしブームなのかもしれない。田舎で何をするのか。一田舎教師であった青年が、マスコミを通じて英雄に祭り上げられることで、閉鎖的なムラ社会との確執が生じ、そして都会へと出て行った生き様を通じて考えるに、自分の居場所については、都会や田舎という場所的なことよりは、自分の好きな事、やらなければならない事を追求することが大切で、それが自然な生き方ではないだろうか。我が終の棲家はどこにしようか。

「田舎暮らしはどうや」

「最近、少し退屈気味かも、仕事もしていないしね」

「でも畑耕しているんやろ」

「それはそうやけど、スーパーでも同じものが売ってるからなぁ」

「・・・・・茨の道やなぁ」

京都山小屋の住人

(次回に続く)